「さあトーマス」における「ケア」
岡部太郎(エイブルアート・オンステージ・ガムランプロジェクト事務局)
 
 
 「ケア」という言葉を「介護・介助」という狭い意味ではなく「人間と人間の関わり合い」という広い意味でとらえ、このプロジェクトを振り返ると、毎回のワークショップはまさにケアの現場であったと思う。その場にいる人たちは、個々の違いを認めながら表現者として関わり合っていた。
 どうやってそのような場ができたのだろうか。
 まず、マルガサリのメンバーたちには障害のある人から発せられた言葉や音、動きを残らずすべて受け入れよう、という姿勢がある。どんなに小さな動作でも、それをメッセージとして受け止め、投げ返そうというどん欲さがある。そして障害のある参加者たちは、そんなマルガサリメンバーが共に同じ場にいることを許し、存在を認めていった。ワークショップを重ねれば重ねるほど、マルガサリのメンバーが口癖のように「彼らのどこに障害があるのかわからない」と不思議がるのは、障害者である以前に協働者として、お互いの呼吸や間合いをはかる感性のキャッチボールを続けていたからだ。
 一方で、障害のある人たちが最高のコンディションで舞台に上がるためには、彼(彼女)らの生活を支える人たちの関わりが不可欠であった。なぜなら彼(彼女)らの表現には日常の独特な生活リズムが大きく影響しているからである。私たちは、表現における関係性にはほとんど口は出さなかったが、環境面では大いにわがままを言った。
 例えば、ワークショップの回数や時間帯を決める際には、実行委員会とともに、日常のケアに携わるスタッフが何度となく意見を交わし、その都度変更した。当初、中川氏は公演に向かって徐々に回数、時間を増やしていく予定をしていたが、私たちは参加者の体力的、精神的な状況から、実施回数を増やさないことを希望した。実行委員メンバーは、当初戸惑いを隠せない様子だった。しかし作品づくりの素材集めを目的とした関係者とのディスカッションが、「参加者のもつ独特なリズムやこだわりや発想は、その人なりの安定した日常生活から生まれている」ということを理解するきっかけになった。「この人のどこに障害があるのか」と思われている人も、場合によっては、ワークショップの会場にすらたどり着けない日もあるのだ。
 その他にも、ワークショップに参加するためには送迎や食事など、細かい段取りが必要になってくる。そのため作品づくりはもちろん、周辺の様々なケアに対応するスタッフが参加している。障害のある人の表現は日常生活と細やかなケアが三位一体となってはじめて実現するのである。
 「さあトーマス」は、全編を通して違う存在同士がぶつかり合い、すれ違う。そこには「なぜ私たちは共に在るのか」という普遍的な問いがある。それはもはや障害のあるなしは関係ない、人間のもつ大いなる魅力、謎なのではないだろうか。
 
 
← BACK | NEXT →
 
「さあトーマス」トップに戻る


(C)copyright1998
GamelanEnsemble-MargaSari.AllRightsReserved.

indexへ